keizai277-08

March 20, 2018 | Author: Anonymous | Category: EDUCATION
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関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算 飯







Ⅰ.はじめに 社会的再生産の理論は,3 つの領域をもつ。①社会的再生産の規模に関する理論,②社会 的再生産の構造を分析する理論,③社会的再生産の変動を明らかにする理論である。要する に,社会的再生産の①規模,②構造,③変動に関する理論である。 社会的再生産の規模に関する理論は,ケインズによって理論的に基礎づけられ現在ではマ クロ経済学として展開されている。また,社会的再生産の構造分析は,ケネーの経済表,マ ルクスの再生産表式論,レオンチェフの産業連関分析という形で発展させられ,さらに社会 的再生産の変動に関してはその循環的変動を扱う恐慌・景気循環論,その趨勢的変動を扱う 経済発展論(事実上は資本主義の歴史的発展段階区分を扱う「段階」理論1)という形で展開さ れ,いずれもマルクス経済学の重要課題として位置づけられてきたものである。 ここからまず言えることは,上記の社会的再生産論の 3 本柱のうち,あとの 2 つはマルク ス経済学の守備範囲に入っているが,第 1 の柱は非マルクス経済学によって発展させられて きたという事実である。 「再生産」という概念が古典派経済学の分析視角を継承・発展させた マルクス経済学にとって極めて重要な要素であるにもかかわらず,従来この社会的再生産論 の重要な一角を占めるべき,その規模に関する理論がマクロ経済学として,非マルクス経済 学によって発展させられてきたということである。 それだけではない。その第 2 の柱である社会的再生産の構造を分析する理論としての産業 連関分析は,消費や投資といったマクロ的集計量を取り扱っており,これはいわばマクロ経 済学の成果を基礎にしている。さらにいえば,マクロ経済学は,社会的再生産の規模に関す る理論というだけではなく,社会的再生産の規模(産出量水準もしくは国民所得水準)の変 動とその原因についても論じており,事実上これは社会的再生産論の 3 番目の柱だというこ とである。 もちろん,マルクス経済学においても,こうした社会的再生産論の 3 本柱を踏まえた理論 構築が存在していないということではない2)。ただ,この社会的再生産論の 3 本柱を踏まえ た理論構築がマルクス学派の共有財産として位置づけられているのかといえば,決してそう ではないであろう。 理由は,マルクス学派における社会的再生産論のもっとも基礎的な範疇ともなっている労 ― 59 ―

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働価値論にある。労働価値論を基礎とする以上,社会的再生産の規模を把握するための「純 生産物」概念は人間労働によって新しく生み出された価値として,いわゆる価値生産物 (V+M)として把握されなければならない。要するに,社会的再生産論を展開するための基 礎範疇となるマクロ的集計量(その実体)はマルクス学派にあっては労働価値論によって基 礎づけられなければならない,ということである。 ところが,労働価値論は,価値レヴェルから価格レヴェルへと論理的に移行するところで いわゆる転形問題というアポリアを抱え,いまだに論争の決着がはっきりとした形でつけら れていない。これは,マルクス学派の展開する社会的再生産論が非マルクス経済学の展開す るそれと切り結び,その中でマルクス経済学独自の発展を図っていくまえに,その理論の基 礎範疇のレヴェルで未決問題を抱えこみ,前に踏み出すことができない状況にあると言うべ きであろう。 小論の目的は,関係主義的な抽象的労働価値論の展開により,この社会的生産論の基礎範 疇となるマクロ的集計量と労働価値論との新しい理論的関連を提示することにある3)。

Ⅱ.関係主義的な抽象的労働説 労働価値論はいくつかの類型に分かれる。もっとも一般的なものは価値本質論と呼ばれる 類型に属し,体化労働説とも呼ばれる理論である。これは,生産過程で投下された労働量に よって価値の大きさが決定されると考え,この価値の実体を抽象的人間的労働として把握す る立場である。 それに対し,ここで展開しようとする労働価値論は,抽象的労働説と呼ばれる理論的類型 に属している。これは,体化労働説が価値の実体としての抽象的労働を労働・生産過程で自 存するものとして捉えるのに対して,市場すなわち流通過程において商品が貨幣に転化する ことによって商品生産労働が抽象的労働に転化する,と捉える。言い換えるなら,抽象的労 働説は,商品の貨幣への転化(W−G)によって労働が抽象化され,価値を生産する抽象的労 働として実現されるという論理であり,ここにおいては貨幣把握が重要な鍵を握っているの である4)。 1.抽象的労働説と貨幣概念 この貨幣の本質をどう捉えるのかという問題は,貨幣がどのように生成したのかという問 題に答えることである。マルクスの資本論体系では,いわゆる貨幣生成論は二つの理論領域 で論じられている。 『資本論』第 1 巻第 1 章第 3 節の価値形態論と第 2 章の交換過程論であ る。 交換の歴史の中から貨幣が発生してきたということから,価値形態論と交換過程論という ― 60 ―

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2 つの貨幣生成論は,いずれも交換の歴史と貨幣生成との関係を論じているように解釈され る場合も多い。が, 『資本論』 (現行版)の中で実際に貨幣の歴史的生成が主題的に論じられ ているのは交換過程論においてである。この場合,貨幣は歴史的には様々な理由から交換手 段としてもっとも使用頻度の高いものが選ばれ,そうしたプロセスの中から最終的に金があ らゆる商品に対する直接的交換可能性を獲得して一般的等価物の地位につくという論理が用 いられている。 他方, 『資本論』 (現行版)の価値形態論では,交換の歴史の中から貨幣が生成するという 論理構成はとられていない。そこでは,貨幣の必然性が,もっとも十全な価値表現を追求し ていく中で一般的等価物=貨幣に到達するという独自の論理によって展開されている。と同 時に,その論理を踏まえて貨幣が価値の絶対的定在として論定されている5)。 2.価値形態論と呪物性論 ここで重要なことは,この価値形態論の中では商品および貨幣の呪物性の根拠が論定され ているという点である。たとえば,マルクスは,価値形態論の中で相対的価値形態において 現れる商品の呪物性と等価形態において現れる貨幣(ただし,その萌芽)の呪物性に関して 次のように論じている。 「この呪物性は等価形態において相対的価値形態におけるよりもいっそう顕著に現れてく る。……この形態は,まさに 1 商品の物体形態または現物形態が直接に社会的形態として, 他の商品のための価値形態として通用しているということに存在する。だから,われわれの 交易の中では,等価形態をもつということは,したがってまた,それが感覚的にそこにあり さえすれば他の諸物と直接に交換されうるということは,ある物の社会的な自然属性として, その物に天然に具わる属性として現れるのである。 」6) 貨幣は,あらゆる商品に対する直接的交換可能性という呪物的性格を生まれながらに具え ている。それは,あたかも貨幣に「天然に具わる属性」であるかのように,その「社会的自 然属性」として人々の意識に映現している。このことをマルクスは上記の引用文の中で等価 形態の特性として説明しているわけである。 ここで重要な点は,マルクスがこの商品および貨幣の呪物性について次のように捉えてい るということである。すなわち,それらの呪物性とは,市場経済(=商品世界)において取 り結ばれる私的諸労働の社会的性格がそこで生活する人々の意識にそれら諸物の価値性格と して反映されたものである,と。この点,彼は価値形態論を含む商品章全体を総括する第 4 節においてこう述べている。 「互いに非依存的な私的諸労働の独自な社会的性格は,これらの労働の人間労働として 7) の同等性にあり,そして,この社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとる。 」

「私的生産者たちの頭脳は,……異種の諸労働の同等性という社会的性格を,これらの物 ― 61 ―

関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算 8) 質的に違った諸物の,諸生産物の,共通な価値性格という形態で反映させる。 」

では,市場経済(=商品世界)の中で生活する人々の頭脳もしくは意識に「労働生産物の 価値性格」として反映させる「私的諸労働の独自な社会的性格」とは何であろうか?

マル

クスは,これを「異種の諸労働の同等性」あるいは「人間労働としての同等性」であると述 べている。彼によれば,さらにこの「私的諸労働の社会的性格」は「私的諸労働の社会的関 係」であり,そのことは貨幣形態によって物的におおい隠されてしまっているとされる。次 の引用文の中にそのことが示されている。 「商品世界のこの完成形態― 貨幣形態― こそは,私的諸労働の社会的性格,したがっ てまた私的労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで,かえってそれを物的におおい隠 すのである」9)。 ここでは,人々の意識に「労働生産物の価値性格」として反映される「私的諸労働の独自 な社会的性格」すなわち異種の諸労働の人間労働としての同等性が「私的労働者の社会的諸 関係」と言い換えられている。つまり, 「異種の諸労働の同等性」が「私的労働者の社会的諸 関係」として捉え直されるわけだが,実は,この捉え直しの中に関係主義的な価値理論へと 繫がる理論的回路が存在しているのである。小論は,この関係主義的な価値理論をベースに 労働価値論を抽象的労働説として提示するつもりだが,ここではひとまずこの関係主義的な 価値概念のエッセンスだけを提示することにしよう。 上記引用文で言う「私的諸労働の独自な社会的性格」すなわち異種の諸労働の人間労働と しての同等性とは,体化労働説の立場にたてば価値の実体とされる抽象的人間的労働のこと である。この場合には,それがあらゆる種類の労働において支出される人間の生理的エネル ギーとして実体化され自存化された位相で把握されるのである。 これに対して,関係主義的な価値理論の立場からは,この「私的諸労働の独自な社会的性 格」は,ある種の社会的関係規定として把握される。そして,そのような関係主義的な価値 把握は,もともとマルクス自身の価値論の中に存在しており,次の引用文にこの理論的立場 が示されている。 「私的諸労働の社会的な形態とは,同じ労働としてのそれらの相互の関連である。つま り,千差万別のいろいろな労働の同等性は,ただそれらの不等性の捨象においてのみ存在 しうるのだから,それらの社会的形態は人間的労働一般としての,人間的労働力の支出と しての,それらの相互の関連であって,このような人間的労働力の支出は,すべての人間 的労働力がその内容やその作業様式がどうあろうと,実際にそういうものなのである。ど の社会的な労働形態においても,別々な諸個人の労働は,やはり人間的労働として互いに 関連させられているのであるが,ここではこの関連そのものが諸労働の独自に社会的な形 態として通用するのである。 」10) ここにおいては,文字どおり「関連そのものが諸労働の独自の社会的形態として通用する」 ― 62 ―

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ことが言明されており,私的労働の社会的性格(=抽象的人間的労働)を関係概念として, 独自の関係性の位相において捉える立場が打ち出されている。 ここで言う「私的諸労働の社会的な形態」とは,異種の私的諸労働の同等性とされるが, 実は,それは諸商品の社会的関係(=商品の交換関係あるいは価値関係,さらにはそれに媒 介される労働の等置関係)の中でだけ存立し,それ自体はこの関係の中で互いに等置された 異種の労働の一方でもなければ他方でもない。言い換えるなら,それは両者に共通の第三者 であり,このような第三者はいわば「抽象的な共通性としての普遍」としてだけ存立可能な のである。そのかぎりで,これはただ関係の中でだけ把握され,この関係性(つまり種類の 異なった労働同士の等置関係)を離れたところでは決して存立しえない。 こうした観点からみれば,体化労働説はこのような関係性の中でだけ把握可能な抽象的労 働を価値の実体として措定しているのであるが,これは同じような存立構造をもつ「抽象的 な共通性としての普遍」概念そのものを実体化しているのと何ら相違はないのである。要す るに,それは,その一方でもなければ他方でもないもの(=第三者)を,この関係を取り結 ぶ両者に帰属させ実体化してしまっている,ということである。 関係主義の場合,この抽象的労働は,これを異質的な諸労働の同等性もしくは「抽象的な 共通性としての普遍」として成立させている「関係」そのものとして措定される。つまり, ここにおいては,異質的な諸労働の同等性は実体化されることなく,もっぱら関係性の位相 においてのみ把握されるのである。 以上が,関係主義的価値概念のエッセンスである。筆者は,かつて拙著( 『市場経済と価値 価値論の新基軸』 )において,この抽象的人間労働概念の存立構造を明らかにすることで,こ れをある種の関係概念として捉え直し,関係主義的な価値理論の中にその独自の位置づけを 与えている。この中では,抽象的人間的労働概念は,市場経済(商品世界)を構成する諸関 係,諸関連の総体という,いわば重層的な関係構造において支えられていることを明らかに したのであるが,その全体構造をここで示すことは紙幅の関係から不可能である。したがっ て,ここでは関係主義的な価値概念についてのエッセンスだけを示し,ここからは価値形態 論と呪物性論との関係をめぐる議論へと戻ることにしたい。 3.関係主義的な呪物性論 すでに述べたように,商品世界においては,商品は価値性格をもち,貨幣はこの価値の絶 対的定在として,あらゆる商品に対する直接的交換可能性という独特の性質を付与されてい る。マルクスは,こうした諸物の価値性格が人々の意識に反映された私的諸労働の社会的性 格であるとして,その呪物性の根拠を価値形態論の展開を通して明らかにしようとしたわけ である。 そこでまず確認しておくべきは,マルクスの言う「私的諸労働の社会的な関連」とは,こ ― 63 ―

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れら労働生産物の商品としての交換を通して行われるということである。したがって,この ような私的諸労働の社会的関連は,ひとまず諸商品の交換関係,価値関係という,いわば商 品連関に媒介されて行われるのである。 そこで,商品や貨幣の呪物性の根拠を私的諸労働の社会的関連の中に求める以上,その分 析次元を商品連関からそれに媒介された労働連関へと深化(=下向)させることは,いわば 不可避の論理的手続きと言うべきであったろう。マルクスもまた,このような商品連関から 労働連関へという分析次元の深化を価値形態論の展開の中で行っているのであるが,ただし, ここでは次のことに注意しなければならない。 商品および貨幣に内属している(と思われている)価値とは,そもそもは商品世界の中に 生きる人々の独特の社会的関係そのものが,彼ら自身の意識のうちに商品や貨幣のもつ固有 )として反映されたものであり,それら商品や貨幣に付着し の属性(=「社会的自然的属性」 た呪物的性格である。関係主義の場合,ここで呪物性の根拠にされている商品世界の中に生 きる人々の独特の社会的関係はもっぱら関係性の位相だけで捉えられ,それが実体化される ことはない。 そして,このような呪物性論の基本的内容を論定するだけなら,もともと関係でしかなか ったものを実体化することや,さらには労働連関次元へと下向することも不要なのである。 商品連関次元にとどまり,その次元で商品および貨幣の呪物性の根拠を社会的関係として論 定することができる。つまり,ここにおいては労働連関次元へ下向することなく,商品世界 の中で取り結ばれている独特の社会的関係が人々の意識に諸物の呪物性として反映されるメ カニズムを析出することは十分に可能なのである。筆者は,こうした観点から拙著(『市場経 済と価値

価値論の新基軸』 )ではもっぱら商品連関次元で価値形態論を展開し,それによっ

て商品世界独特の社会的関係が人々の意識に商品および貨幣の呪物性となって反映される論 理構造(メカニズム)を明らかにしている。 それは,関係主義的な価値論に基礎づけられた呪物性論とも言うべきものである。この理 論的な核心だけを言えば,次のようになる。諸商品に共通する第三者もしくは「抽象的な共 通性としての普遍」は,商品連関次元において商品世界に独自の関係を取り結ぶ人々の社会 的関係として(関係性の位相で)捉えられる。そして,この関係主義的な呪物性論は,商品 や貨幣の呪物性の根拠を商品連関次元で析出される「抽象的な共通性としての普遍」あるい はそれを支える関係性そのものに求めるわけである11)。 これに対して,マルクス自身は商品連関次元からさらに労働連関次元に下向し,そこに析 出される私的諸労働の社会的な関係にまで分析次元を深化させているが,それは諸商品に共 通する第三者すなわち「抽象的な共通性としての普遍」を実体化するためであった。彼の言 う「私的諸労働の独自な社会的性格」すなわち異種の諸労働の人間労働としての同等性とは 抽象的人間的労働のことであり,その生産物が商品の価値なのである。この意味で,商品価 ― 64 ―

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値はこの抽象的人間的労働の対象化として措定されるわけで,私的労働の社会的性格たる抽 象的人間的労働はこうして実体化されるのである。 なお,小論の立場は,マルクスのように労働連関次元へ下向せず商品連関次元で呪物性論 を展開することで関係主義的価値理論の立場にとどまっており,したがって,この時点では まだ労働価値論ではないということは留意されたい。あえて言えば,この段階においては, いまだ価値論はいわゆる存在論もしくは認識論のレヴェルに置かれたままにある,というこ とでもある。 4. 「道具」としての労働価値論: さて,小論の目的は,上述した関係主義的な価値理論や呪物性論の内容をあらためて世に 問うことではない。この関係主義的な価値理論を前提に,労働価値論を抽象労働説として提 示することが目的である。 そこで,まず確認すべきは,抽象的労働説にたつ場合にも,それが労働価値論である以上 は商品連関次元から労働連関次元への下向を不可欠とする,ということである。ただしこの 場合,体化労働説的な労働価値論とは異なった方法がとられなければならない。この点に関 連して,筆者は拙著の中でこの関係主義的な価値論と労働価値論との区別と関連について次 のように論じている。 「労働価値論は関係主義的な価値理論をベースにこれを再構成できるが,この労働価値 論は通常の実体主義的な労働価値論とは区別される必要がある。なによりもここでは,抽 象的人間的労働が価値の実体として労働・生産過程で自存することはなく,商品世界とい う独特の物象化された空間を構成する価値関係の内部でだけ存立するという点で,その理 論的位相は決定的に異なる。……したがって,この立場にたつかぎり,労働価値論は関係 主義的価値論のベース上で展開されるある種の「道具」 (比喩的に言えば,ひとつのアプリ 12) 。 ケーション・ソフト)の地位におかれることになるであろう」

要するに,関係主義的な価値理論は,労働価値論をある種の「道具」 (すなわち経済分析の ためのツール)として措定することができる,ということである。そこで,労働価値論をそ のような「道具」として提示するためには,問題の抽象的人間的労働概念を関係性の位相に とどめることなく,これを実体化しなければならない。問題は,これをどこで行うのかとい うことである。 ここでまず必要なことは,商品連関次元から労働連関次元への下向である。ただし,それ はマルクスが『資本論』商品章の中で行ったように貨幣存在を論定する以前(商品章第 1 節) の段階でも,あるいは貨幣の特性(すなわち,あらゆる商品に対する直接的交換可能性と言 う,その呪物性)を論定する(商品章第 3 節の価値形態論)段階でもなされるべきではない13)。 労働連関次元への下向は,商品が貨幣に転化し,そこから商品が価値として実現されるこ ― 65 ―

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とを踏まえて行われるべきである。そのためには,まず貨幣存在を明らかにしておかなけれ ばならない。それによって初めて,労働連関次元で私的な具体的労働が抽象的労働に転化す ること(要するに,価値形成労働の生成)を論定できるのである。 5.抽象的労働概念の存立構造 さて,商品は,市場において貨幣に転化することによって,その労働連関次元では私的な 具体的労働が社会的な抽象的労働に転化する。商品が貨幣に転化する以前にも,人々は商品 には価値があると思いこんでいるが,それは単に可能性でしかなく,その価値は実現されて はいないのである。人々は,この可能性としての価値を貨幣との等置関係の中で価格として 表現する。しかし,このように商品が貨幣にたいして観念的に等置されているレヴェルで, 仮に労働連関次元に下向しても,商品生産労働は私的労働であり具体的労働であるほかなく, そこから抽象的労働が析出されることはないのである。 では,商品生産労働は,どのようにして抽象的労働という独自の存在形態を獲得できるの であろうか?

その答えは以下の通りである。

商品価値は,市場で商品が貨幣に転化(W−G)することによって価値として実現される。 これによって,商品は貨幣にたいして観念的にではなく現実的に等置されるのである。ここ で商品と貨幣との現実的な等置というのは,商品の貨幣への転化(W−G)を等置関係 (W=G)として捉え直したものである。そして,この現実的等置を前提して商品連関次元か ら労働連関次元へと下向するならば,ここでは一般的等価物としての貨幣はあらゆる商品に よって等置されており,そのことによって,この労働連関次元では当該の商品を生産した労 働が(貨幣を媒介に)あらゆる種類の商品生産労働と等しいとおかれている。 そして,この論理レヴェルにおいて商品生産労働は二重化される。つまり,ここにおいて は,当該商品に独自の使用価値を生産した労働が同時にあらゆる労働に共通する第三者とし ての抽象的労働として措定され,これと重ねられている(二重化されている)からである。 さらには,この関係を商品と貨幣との現実的等置(W=G)レヴェルではなく,商品の貨幣 への転化(W−G)というレヴェルで見るならば,ここにおいては当該の商品を生産した私的 な具体的労働が社会的労働すなわち抽象的労働に転化したのである。そして,この場合には 貨幣との交換によって実現された抽象的労働が,商品の価値や所得源泉となる純生産物を生 み出した実体として措定されることになる。つまり,ここでは具体的労働そのものが純生産 物(V+M)を生産した抽象的労働として評価され,そのようなものとして実現されたという ことである。 以上,ここでは,関係主義的な価値論に基づいて「道具」としての労働価値論を提示して きた。それはいわば関係主義的な抽象的労働説というべきものであり,その理論的核心は次 の点にある。ここにおいて,抽象的労働は,労働・生産過程に自存するものとしてではなく, ― 66 ―

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また単に関係性としてでもなく,流通過程で商品が貨幣に転化することによって私的労働が 転化すべき社会的労働として措定されている,ということである。 つまり,関係主義的な価値理論において関係として措定された抽象的労働は,ここではそ れが成立している関係性の位相から切り離され,これとは別次元の存在として措定されたわ けである。そして,事実上はそのことによって,関係としての抽象的労働を実体化し,これ を経済分析のための「道具」に作り替えているということである。 むろん,このような関係としての抽象的労働の実体化は,市場における商品の貨幣への転 化を根拠にしており,この意味では単なる思考の中だけの論理的操作ではない。そして,そ のさい何よりも重要な点は,ここで価値論はいわば存在論もしくは認識論的なレヴェル(= 関係主義的な価値理論)から経済分析のためのツールへと変換されたのだ,ということであ る。

Ⅲ.抽象的労働説と国民所得 さて,抽象的労働説にたつここでは,市場で商品が貨幣に転化することによって,その使 用価値を作った具体的労働があらゆる種類の労働に共通する抽象的労働に転化する。つまり, 市場で評価されるかぎり,商品を生産した労働はすべて価値を生産した労働として認められ, 本源的所得の源泉になるのである。 このような労働価値論(=抽象的労働説)にたつかぎり,かつて華々しくたたかわされた, いわゆる生産的労働に係わる論争―すなわち,価値を生み出す労働は物質的生産労働のみ である(本源的規定)のか? あるいは剰余価値を生み出す労働である(歴史的規定)のか? さらにサービス労働は価値形成的か否か?

等々 ―とりわけ生産的労働論と国民所得論と

に関連する係争問題は本来的に別次元の議論であり,ここで取り上げるべき問題ではないと いうことになる14)。 抽象的労働説においては,物質的財貨であれ,あるいはサービスのような非物質的財貨で あれ,それが商品を生産する労働であり,当該商品が市場で貨幣に転化するなら,その労働 はすべて価値を生産した労働として認められ,本源的所得の源泉になるからである。 1.抽象的労働説とサービス労働 これに対して,いわゆる体化労働説の立場にたてば,こうはならない可能性がある。体化 労働説の場合,価値を生み出す労働は物質的生産を行う労働だけで,サービスのような非物 質的生産を行う労働は価値を生み出すことはない,と考えられているからである。 体化労働説がこのような物質的生産を重視するのは,マルクス学派に特有の「生産」概念 が基礎にあるように思われる。マルクス学派の場合, 「生産」概念はいわゆる唯物史観を基礎 ― 67 ―

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としており,それは主体としての人間による外的な客体としての自然の加工(人間と自然と の物質代謝過程)であり,基本的にそれは人間と自然(すなわち客体的自然=物質)との関 係において捉えられている。このかぎりにおいて, 「生産」はもっぱら物質的財貨を生み出す 活動として把握されざるをえないものとなり,サービス労働などの非物質的財貨を生み出す 人間の活動は「生産」範疇の外におかれることになるのである。 これに対して抽象的労働説の場合には,市場で認められた労働はすべて価値を生み出す労 働であり,ここにおいては物質的財貨を生産する労働だけではなく,サービスなどの非物質 的財貨を生産する労働も同じ「生産」範疇で捉えられる。このさい問題は,この抽象的労働 説もまた労働価値論である以上,これと唯物史観を基礎とした「生産」概念との関係はどの ように捉えられるべきなのか,ということである。 そこで,まず考慮すべきは次の諸点である。非物質的財貨とされるサービスの中には設 計・研究開発サービスや経営管理関連サービスなど,最終的には何らかの物質的財貨の生産 (あるいは人間と自然との物質代謝過程)につながってゆく活動の 1 部分(すなわち全体的な 分業の 1 構成部分)になっているものが数多く存在している,ということである。そうであ るなら,この種のサービス生産(非物質的生産)は,広い意味での人間と自然との関係にお いて捉えられるべきであって,物質的生産と本質的な認識レヴェルで区別すべき理由はどこ にも存在していないということになる。 また,こうした非物質的財貨を生産するサービス部門は,基本的には生産関連サービス部 門と消費関連サービス部門との 2 部門からなると考えることができる15)。そして,上述した 何らかの物質的財貨の生産(あるいは人間と自然との物質代謝過程)につながってゆく活動 の 1 部分(すなわち全体的な分業の一構成部分)として捉えられるようなサービス生産を行 うのは,このうちの生産関連サービス部門ということになろう。このような部門には,コン サル等を含む調査業,情報・通信サービス業,運輸業,倉庫業,さらには卸売業,金融(広 義)業,不動産業,等々が含まれている。 他方,消費関連サービス部門におけるサービス生産は,基本的には,人間の直接的な自然 に対する働きかけとしてではなく,むしろ人間の人間に対する働きかけ(たとえば,医療, 教育などのサービス)として行われる。これは,労働主体としての人間が同じ人間を労働対 象とする関係であるとも言いうるが,ここで労働対象とされた人間もまた自然の一部と考え るならば,この種のサービス生産もまた広い意味においては人間−自然関係において把握可 能なのである16)。 こうして,消費関連サービス部門においては,人間の自然としての人間に対する働きかけ の中で,無形の(非物質的な)使用価値が生産されることになる。このような部門には,上 述した医療,教育関連のサービスの他に,理容,浴場業といった個人向けサービス業,スポ ーツ,文化,旅客運送業等の娯楽関連のサービス業,さらには小売業,飲食業,生命保険業, ― 68 ―

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等々が含まれるであろう。 かくして,ここにおいては使用価値概念が二つに分化する。第一は,人間―自然関係の中 で自然の加工を通して「生産」される物質的財貨としての使用価値であり,第二は,直接的 な自然との関係の中で生産されたわけではないが,広い意味での人間―自然関係の中で「生 産」される非物質的財貨としての使用価値である。この 2 つの使用価値概念によって,商品 概念もまた 2 つに分かれる。ひとつは,物質的生産によって生み出された使用価値と価値か ら構成される通常の商品であり,いまひとつは,非物質的生産によって生み出された使用価 値と価値から構成されるサービス商品である。 さて,以上の使用価値概念,商品概念を踏まえて,ここからはいわゆるサービス生産につ いて考察して行こう。 これらのサービス生産には,上述したように,生産関連サービス部門としてコンサル等を 含む調査業,情報・通信サービス業,運輸業,倉庫業,さらには卸売業,金融(広義)業, 不動産業,等々が含まれ,また消費関連サービス部門として,理容・浴場業・クリーニング などの個人向けサービス業,医療,教育,文化,あるいはスポーツ,旅客運送業などの娯楽 関連のサービス業,さらには小売業,飲食業,宿泊業,生命保険業,等々が含まれる。 ところで,これらの産業はまた,卸売業,小売業,飲食業,さらには金融(広義)業,不 動産業,宿泊業,生命保険業等々といった,もっぱら流通過程で活動する産業に分類される 部門と,その他に,広い意味でのサービス産業に分類される諸産業が活動する部門とに区分 することができる。ここでは前者を流通部門とし,後者をサービス部門として区別すること にしよう17)。 そのさい注意すべきは,マルクス学派の場合,仮にサービス労働が価値形成的であること を認める論者も,この流通部門に属する産業における労働(=流通労働)は価値形成的であ ることを否定する傾向がある,ということである。 その理由は,マルクス学派にあっては,一般に流通からは価値は生まれず,したがって流 通のための労働は価値を生産しない,と考えられているためである。確かに,流通において は,一者が得るとことは他者が失うところとなるというのは事実である。しかし,だからと いって流通に関わる労働が価値を生まないということにはならない。一者が得るとことは他 者が失うところとなるというのは,重商主義の経済学者であった J・ステュアートの,いわゆ る流通利潤論を否定するさいに用いられた論法であるが,この流通利潤論批判によっては, 流通のための労働が価値を生産するという労働価値論の論理(ただし抽象的労働説)を否定 することはできないのである。 抽象的労働説にたつここでは,このような流通部門とサービス部門との区別はまったく意 味をなさない。まず,このことを流通部門の代表格である商業について確認しておこう。商 業は,その中に運輸サービス,保管サービス等を内包し,その中心をなす商業労働は,売買 ― 69 ―

関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算

取引など,いわば純粋な流通労働とともに価格計算,簿記,通信,現金出納,さらには商品 の品え,品質鑑定,/量,分類,小分け,受け渡しなど18)があり,これらに加えて広告・ 宣伝や市場開拓および各種の販拡活動,マーケティング活動などに従事する諸労働が含まれ ている。これらの労働は,運輸サービス,保管サービスなどの諸労働とともに,いわば 1 つ にパッケージされて商業という独自の産業を形成しているわけである。 この中の運輸サービス,保管サービスなどの諸労働について言えば,マルクス自身がこれ らを価値形成的であることを認めている。そこで,マルクス学派の多くが否定するのは,こ の運輸サービスや保管サービスではなく,商業の中核をなす売買取引のための純粋な流通労 働であり,この労働が価値形成的であるということである。 むろん,抽象的労働説にたつここでは,この純粋な流通労働とされる商業労働も,それが 市場で評価されるかぎり価値を生み出す労働である。商業(卸売業,小売業など)の場合に は,これら商業者の扱う商品が市場で販売されたことをもって,この商品の販売のために用 いられた諸労働(運輸サービス労働,保管サービス労働,純粋な流通労働など)が市場で実 現されることになる。したがって,この時点において,そうした売買取引のための純粋な流 通労働(=商業労働)としての私的労働もまた社会的労働として実現され,価値を生み出し た労働として認められるのである。 さらに言えば,ここで示した流通労働もしくは商業労働とされる諸労働は,商業だけでな く,他方で運輸業,倉庫業などの流通産業を支えている重要なサービス労働であり,これら の諸労働によって生み出された価値は商業をも含む流通産業の本源的な所得を形成するとい う点にも注意しなければならない。もっと正確に言えば,これらの諸労働は,上述したよう な流通産業のみならず,流通過程をその蓄積・再生産運動の重要な一環としてもつ産業資本 一般にとっても不可欠の存在だということであり,そのかぎりにおいては諸産業の中でこれ らの労働もまた価値を生産し本源的な所得を生み出している,ということである19)。 2.抽象的労働説と国民純生産 以上の議論を踏まえて,ここでは既存の国民経済計算の中で与えられている国民純生産 (NDP)の内容を検討してみよう。表 1 は,国内純生産(NDP)の経済活動別の構成を示して いる。見てのとおり,ここでは国民経済計算上の新しい価値(純生産物または価値生産物) を生み出す部門として, 「1.産業」 「2.政府サービス生産者」「3.対家計民間非営利サービ ス生産者」の 3 つが区分されている。 このうち, 「1.産業」部門は,農林水産業,鉱業,製造業からサービス業まで 11 の生産部 面から構成されているが,いずれも商品を生産し販売する部門であり,ここに計上されてい るものはすべて市場で実現された価値額だと言える。したがって,この価値を生産した各部 門の労働は,いずれも市場の評価を受けた労働であり,私的具体的労働から価値を生産した ― 70 ―

東京経大学会誌 表1

第 277 号

2010 年 国内純生産(要素価格表示) (単位:10 億円)

1.産 業 (1)農林水産業 (2)鉱 業 (3)製 造 業 a.食 料 品 b.繊 維 c.パルプ・紙 d.化 学

296,755.4 2,864.4 110.5 60,249.1 7,818.9 219.7 1,639.7 4,953.9 2,286.5 1,893.9 7,250.8 3,180.1 6,913.1 8,150.3 7,842.2

e.石油・石炭製品 f.窯業・土石製品 g.一次金属 h.金属製品 i.一般機械 j.電気機械 k.輸送用機械 l.精密機械 m.その他の製造業 (4)建 設 業 (5)電気・ガス・水道業 (6)卸売・小売業 (7)金融・保険業 (8)不動産業 (9)運輸業 (10)情報通信業 (11)サービス業 2.政府サービス生産者 (1)電気・ガス・水道業 (2)サービス業 (3)公 務 3.対家計民間非営利サービス生産者 (1)サービス業 合 計

1,052.5 7,047.6 22,646.6 3,165.7 52,224.7 20,075.3 32,762.7 14,942.9 19,987.5 67,726.1 29,673.0 636.3 9,804.8 19,231.9 8,829.1 8,829.1 335,257.6

出所〕2010 年度国民経済計算より。

抽象的労働に転化した社会的労働として認められている,ということである。なお,この部 分は国民所得の大半を占めており,全体の中のおよそ 86% がこの部門によって生産されて いる。 また,表 1 における国内純生産の中には,商品を生産せず,したがってまた市場の評価を 受けることのない,公務あるいは国公立学校の教育サービスや国公立病院の医療サービスな どの政府サービス生産者によって産出された価値部分も含まれている。では,この「2.政府 ― 71 ―

関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算

サービス生産者」についてはどのように考えるべきであろうか? まず留意すべきは,これら政府サービス生産者の労働は,基本的に私的労働ではなく始め から市場のテストを必要としない社会的労働として存在している,ということである。抽象 的労働説の場合,価値を形成するのは,基本的には市場を通して社会的労働(=抽象的労働) に転化した労働なのであるが,これら政府サービス生産者の労働は,市場のテストを受ける ことなくはじめから社会的労働として提供され(通用し)ているのである。この意味では, この政府サービス生産者の具体的労働それ自体で社会的総労働の中に組み込まれると同時に, それがそのまま価値を生産した抽象的労働として認められている,ということになる。 実際の国民経済計算においても,これらの労働によって生み出された価値部分は,そのま ま国内純生産の中に組み入れられている。むろん,抽象的労働説が価値形成的と認める労働 は市場のテストを受けたものだけであるとする立場からは,この政府サービス生産者の活動 が価値を形成するということは認められない。 しかしながら,国民経済計算が市場を通すか否かに関わりなく社会的労働によって生産さ れた一国の価値の大きさを示すための計算システムであるという前提に立てば,これは抽象 的労働説の立場からも容認できる処理である。この部分の価値は,国内純生産の 10% 弱を 占めており,その中の公務は全体の約 6.5% の割合である。 なお,国民経済計算では,商品を生産する私的労働によって産出された,いわゆる「産業」 (=民間部門)の価値部分と,公務などのように,はじめから社会的労働として認められてい る政府サービス生産者(=政府部門)によって産出された価値のほかに,いわば第三の経済 部門とも言うべき「3.対家計民間非営利サービス生産者」(具体的には私立学校,公共性の 高い私立病院,私立の社会福祉施設など)によって生み出された価値部分が計上されている。 この部分については,政府サービス生産者による純生産物の産出額が基本的に生産費用 (コスト)で評価されるのと同じような形で処理され,この意味においては,そこでの労働も 政府サービス生産者のそれと同様にはじめから社会的労働として認められているということ になるのである。なお,この部分の価値額は全体の約 4.3% である。 ただし,この「対家計民間非営利サービス生産者」は,一部そのサービスの対価を民間か ら受け取っている(多くの場合その対価は当該サービスの生産コスト以下である) 。そこで, 支出国民所得においては,この対価が支払われた部分については「家計最終消費支出」とし て処理され,支払われなかった部分(対価で賄われなかったコスト分)は, 「対家計民間非営 利団体最終消費支出」として処理されている。要するに,これは対価で賄われなかったコス ト部分をいわば生産者自らが消費したものとして処理しているということである。 3.本源的所得と派生的所得 ところで,体化労働説の場合,本源的な所得になるのは物質的生産によって生み出された ― 72 ―

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価値部分だけであり,非物質的な生産であるサービス生産労働は価値を生産せず,本源的な 所得を生み出さない労働である。つまり,そこに与えられる所得は本源的所得から再分配さ れた派生的な所得でしかない,ということであった20)。 これに対して,抽象的労働説の場合には,市場で評価された労働はすべて価値形成労働と して認められる。したがって,サービスのような非物質的財貨が商品になった場合でも,こ のサービス商品が市場で実現されるかぎり,これを生み出したサービス労働は価値を生産し た労働として認められ,本源的所得の源泉とされるのである。 とはいえ,所得の中には,これら本源的な所得から再配分された派生的な所得の部分も当 然に存在している。そうした派生的な所得として存在がはっきりしているものは,たとえば 家庭教師あるいは簡単な手伝い仕事に対する報酬やボランティアに対する気持ちばかりの謝 礼などであり,これらは基本的に市場を通すことのない所得である。 ただし留意すべきは,市場に媒介された所得の中にも,この種の再分配された派生的な所 得が存在するということである。たとえば金融市場においては,いわゆる利子という財産所 得が発生するところから,この種の移転所得すなわち派生的所得が必然的なものとして存在 している。 ここでは,銀行から融資を受けた企業から銀行に支払われる利子部分は,融資を受けた企 業によって産出された価値(=本源的所得)の移転部分であり,さらにはこの銀行から預金 者に支払われる利子部分も,企業によって産出された価値の再移転部分である。この意味で は,これらは明確に再配分された派生的な所得である。したがって,基本的に金融業におけ る賃金や利潤などの所得のかなりの部分は,この価値移転部分としての受取利子と支払利子 との差額分(いわゆる利–)を源泉としている,と言わなければならない。 では,実際の国民経済計算においては,これはどのように扱われているのだろうか?



こにおいては,貸付利子と支払利子の差である利–部分を銀行によって生み出されたサービ スに対する対価と見なしている。つまりは,この銀行に対価としての利–(所得)をもたら したサービス活動は価値を生み出した「生産」として,その価値部分は金融業の産出額に含 められているということである。 とはいえ,合理的に判断すれば,やはり企業が金融業者に支払った貸付利子は企業が生み 出した価値の一部でしかなく,この部分はすでに企業の産出した価値(GDP)の中に計算さ れているのである。にもかかわらず,ここではこの価値(利–)分を金融業の産出額に含め てしまっているわけで,二重計算になっていることは否定のしようがない。そこで,国民経 済計算では,この二重計算部分を事後的に GDP から控除しているのであるが,ここに登場 するのが帰属計算という独特の手法である。 帰属計算とは,実際には行われていない経済取引や生産であるにもかかわらず,あたかも それが行われたように擬制して計算・記録する方法である。これによって国民経済計算体系 ― 73 ―

関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算

の終始一貫性を確保することや,あるいは制度や慣習の異なる各国間の計数の比較を同一尺 度で実現することを目的に考え出されたものである。 ここにおいては,上述したような二重計算を回避するために,貸付利子と支払利子の差額 (利–)分を「帰属利子」として全産業の付加価値の合計額から一括して控除するという処理 がおこなわれている。具体的には,計算上のダミー産業を設定して,この産業がこの帰属利 子分を一括して購入して中間投入する形にする(したがって最終生産物には結実しない) 。 その結果として,当該ダミー産業の営業余剰がマイナスの値をとることで,全体としての GDP や営業余剰がこの帰属利子分(二重計算分)だけ過大になるのを回避するというやり方 が行われているわけである。 ちなみに,この種の帰属計算には次のようなものがある。 (1)帰属家賃, (2)農家の自家 消費,(3)雇用者に対する現物支給,(4)社会保障負担・給付,(5)帰属利子,(6)保険サ ービスである。抽象的労働説に立って国民所得計算を利用する場合,帰属利子等の設定は, 手続き上これが二重計算を回避しているかぎりでは許容範囲内にあると言える。その他の帰 属計算についても,その多くが国際間の比較を可能にするために尺度を一元化する措置と考 えれば,やむを得ないとみることもできる。ただし,この中の帰属家賃21)については,ここ で価値論上の問題点を指摘しておかなければならないであろう。 帰属家賃とは,自分の家を所有する人が,その家の生み出す用役(=住宅サービス)への 対価として自分自身に支払う家賃のこと,もしくはその家に住む自分から家主としての自分 に支払われる家賃のことである。 帰属計算の対象になる上記 5 項目のうち,この帰属家賃以外は何らかの形で労働の生産物 と見なすことが可能である。そうである以上,これらは労働価値論によって(それが価値生 産的か否かをも含めて)理論的に処理することができる。ところが,帰属家賃は,国によっ て賃貸住宅が多い場合と持ち家が多い場合とによって GDP の規模に大きな格差が発生する ためにとられた措置であるが,そのベースには,価値が人間労働だけではなく住宅(設備) によっても産出されるという労働価値論の立場とは相容れない価値論がある。これは,抽象 的労働説の立場からはやはり認めることはできない。 以上の議論を踏まえて,さらにここで抽象的労働説の立場から注意を促したいのは,上述 した金融業の所得(賃金,利潤など)はすべてが本源的所得から再配分された派生的な所得 であるということにはならない,という点である。ここにおいては,いわゆる金融仲介サー ビスに伴う労働によって新しく生み出された価値も存在するからである。 むろん,ここで体化労働説に立てば,この種の金融仲介サービスは,いかなる労働をとも なうものであれ価値を生み出すことはない。それは物質的生産に関わらない労働だからであ る。したがって,金融業に関わる所得はすべて本源的所得から再配分された派生的な所得と なる。この場合には,一般企業が金融業に支払った貸付利子は第 1 次再分配分,金融業が預 ― 74 ―

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第 277 号

金者(家計)に支払った支払利子は第 2 次再分配分ということになるであろう。 とはいえ,抽象的労働説にたつ場合には,こういう形にはならない。抽象的労働説におい ては,金融業が家計から預金を集め,いわゆる信用創造をともないつつ企業に貸し出すため に充用されたサービス労働(=金融労働)は価値を生み出す労働であり,この労働によって 生み出された価値は市場のテストを受けることによって,社会的労働の生産物として実現さ れるからである。 こうした金融サービスは,家計から預金を集め,この借り手を探して,借り手の信用力調 査を行い,信用創造を含めて貸し付けた資金を利子付きで回収すると同時に,資金提供者 (預金者)に利子を支払う等々の,いわゆる金融仲介に関わるサービス労働,すなわち金融労 働によって担われている。ここにおいては,単に金を貸すという行為を金融サービスとして いるのではなく,それに付随する様々な種類の労働を金融サービスとして把握していること に注意すべきである。 ここからまた,抽象的労働説の立場からは,金融業の所得(賃金,利潤など)は,先の価 値移転部分の受取利子と支払利子との差額分(利–)を源泉とするだけではなく,こうした 金融サービスに伴う労働によって新しく生み出された価値(=本源的所得)をも源泉として いるということになる。 では,この問題は現行の国民経済計算ではどのように扱われているだろうか? ここにお いては,問題の金融労働(金融仲介サービス)によって新しく付け加えられた価値部分への 対価は,先の価値移転部分の受取利子と支払利子との差額分(利–)とは区別されて,金融 業者の「手数料収入」として計上されている。そして,この金融仲介サービスの対価を支払 う需要者としては家計,各産業,政府,海外等であるが,これが最終生産物として需要され た場合,この部分は GDP の増額分として扱われることになるのである22)。 こうして,抽象的労働説の立場にたった場合,企業から支払われた貸付利子は移転所得と 考えられ,また金融業者が預金者に支払う利子も移転所得として扱われる。これは体化労働 説の考え方と同じである。ところが,抽象的労働説の場合,金融仲介サービスに関わる労働 が新しい価値=所得を生み出すことを認めている。ここから,金融業においては,貸付利子 と預金利子との差額である利–のほかに新たな価値=本源的所得が生み出されているという ことを認めるのである。つまり,金融業の所得(賃金,利潤)の中には,利–(帰属利子) のほかに金融労働によって新しく付け加えられた価値部分が入っている,ということである。 最後に,次のことを付記しておきたい。すでに見たように,帰属計算の中には保険サービ スが含まれていた。ここでいう保険サービスの実体は,保険加入者が支払った保険金と保険 会社が要件に応じて加入者に支払った保険金との差額である。そのかぎりで,これは移転所 得にほかならない。ところが,国民経済計算上は,それを保険業ビジネスによって産出され た価値とし,この価値分を家計や企業が購入するという形で処理しているのである。言い換 ― 75 ―

関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算

えるなら,ここにおいて保険会社はリスクを負担することで加入者に安心という価値(効用) を生みだし,この価値( 「保険会社の帰属サービス」と名付けられている)が加入者によって 購入されるという関係が想定されているわけである。 ただし,抽象的労働説の立場からは,同じような金融サービスが事実上の移転所得(利– =帰属利子)分と金融労働によって新しく生み出された価値(本源的所得)分とに区別され たように,この保険サービスの場合も,事実上の移転所得分と保険サービス労働によって産 出された本源的所得分とに区分する必要があるように思われる。

Ⅳ.おわりに 労働価値論とは,端的に言えば,市場メカニズムを媒介とした労働の社会的編成(配分) のあり方を明らかにするための理論である。つまり,社会的分業を構成する各産業部門への 労働の配分は具体的有用労働の社会的編成として行われるが,資本主義経済ではそれが市場 を媒介にして,したがってまた商品価値と貨幣を媒介にして行われるのであり,労働価値論 の意義はこのメカニズムを解明するところにあった。そして,ここで小論が明らかにしてき たことは,人間労働だけが商品価値を生み出すという基本原理を踏まえつつ,この課題が体 化労働説によらなくとも抽象的労働説によって十分に果たすことができる,ということであ る。ただし,ここにおいてはマクロ的な価値の決定メカニズムについては論じてきたが,ミ クロ的な価値=価格メカニズムについては論じていないことに注意を要する。この問題に関 しては別稿をもってあたる予定である。

注 1 )この資本主義の歴史的発展段階区分を扱う「段階」理論について,筆者自身は『グローバル資 本主義論

日本経済の発展と衰退』 (日本経済評論社,2011 年)の中の補論「資本主義の歴史区

分とグローバル資本主義の特質」(205-273 頁)で論じている。 2 )こうした社会的再生産論の 3 本柱を踏まえたマルクス学派の理論構築としては,その代表とし て置塩信男氏の理論的営為をあげることができるであろう。ただし,置塩氏は本論において問 題にする体化労働説の代表的論客でもある。 3 )筆者は,今から 12 年前に拙著『市場経済と価値

価値論の新機軸』 (ナカニシヤ出版,2001 年)

において関係主義的な価値理論を世に問うている。そこでは,もっぱら価値の関係主義的な論 理構造を解明することに注力し,後述する体化労働説にも抽象的労働説にも与することなかっ た。ただし,今回は自らの旗幟を鮮明にし,一方の抽象的労働説によって労働価値論を展開し ていくつもりである。 4 )体化労働説と抽象的労働説との違いが鮮明になっていくのは,1960 年代後半から始まった,い わゆるマルクス・ルネッサンス期以降のことである。それぞれのもつ理論的な意義と限界につ いては拙稿『市場経済と価値

価値論の新機軸』(前掲)第 2 章「価値の量的規定と物量体系」 ― 76 ―

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の中で明らかにしているので参照されたい。 5 )価値形態論の解釈さらにはこれと交換過程論との関係等についての諸議論,諸論争については, 文字通り汗牛充棟の状態で膨大な研究蓄積が存在している。これについては,拙著『市場経済 と価値

価値論の新機軸』 (前掲),第Ⅱ編(第 4 章「商品語と価値形態」 ,第 5 章「価値形態の

発展」 ,第 6 章「貨幣の必然性について」,184-292 頁)を参照されたい。 6 )Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Bd. 1, erste Auflage, 1867. in : Karl Marx/Friedrich Engels, Gesamtausgabe(neue MEGA), 2. Abteilung, Bd. 5, Dietz Verlag, Berlin, 1983. S. 108. 邦訳は岡崎次郎訳『資本論 第 1 巻 初版』(大月書店,1976 年)151 頁。 7 )Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Ökonomie, Bd. 1, in : Karl Marx/Friedrich Engels, Werke(MEW), Bd. 23, Dietz Verlag, Berlin, 1962. S. 88. 邦訳は岡崎次郎訳『資本論』 ( 『マルクス・エンゲルス全集』第 23 巻,大月書店,1965 年)100 頁。 8 )Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Ökonomie, Bd. 1. ibid. 邦訳 99 頁。 9 )Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Ökonomie, Bd. 1. S. 90. 邦訳 102 頁。 10)Karl Marx, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Bd. 1, erste Auflage. S. 86-7. 邦訳 72-3 頁。 11)この関係主義的な呪物性論については,価値形態論,交換過程論の解釈をめぐる諸論争を含め て,拙著『市場経済と価値

価値論の新機軸』 (10 章編成)全体を使って論究しており,その詳

細については拙著そのものに当たってもらいたい。 12)拙著『市場経済と価値

価値論の新機軸』(前掲),308 頁

13)マルクスが『資本論』の中で最初に商品連関次元から労働連関次元に分析次元を移すのは,第 1 章第 1 節の,いわゆる「蒸留法」によって 2 商品の等置関係の中から抽象的人間的労働を析出 するところであり,次には第 3 節の価値形態論の第一形態論(「相対的価値形態の内実」)にお いてである。いずれも,労働連関次元から価値実体として抽象的人間的労働を析出する論理を 展開しているが,前者は分析者の観点から抽象的人間的労働を析出し,後者は商品の社会的関 係・関連(=価値関係)の中から商品自身がこれを措定するという形で展開されている。 14)生産的労働論争は,当初マルクスの生産的労働に関する本源的規定と歴史的規定という 2 つの 規定をめぐってたたかわされたが,議論の中心はサービス労働を生産的とするか不生産的とす るかにあった。これを不生産的とする論者は本源的規定により,またこれを生産的とする論者 は歴史的規定によって自らの正当性を主張したわけである。やがてサービス労働を価値形成的 と考える論者達は,この二者択一的なレヴェルの生産的労働論争から離れ,使用価値概念の吟 味をも含む価値論レヴェルの議論に純化して行くことで独自のサービス労働=生産的労働説を 展開していくことになる。この代表的論客が赤堀邦雄氏( 『価値論と生産的労働』三一書房, 1971 年)であり,これに対峙する形でサービス労働=不生産的労働説を展開した代表的論客が 金子ハルオ氏(『生産的労働と国民所得』日本評論社,1966 年)であった。以後,論争はこの二 つの流れに方向づけられる形で展開されていったといってよい。 15)飯盛信男氏(『サービス経済論序説』九州大学出版会,1985 年)は,第三次産業をサービス部門 と流通部門とに分け,さらに,この二つを生産関連部門と消費関連部門とに区分している。し たがって,第三次産業は,①生産関連サービス部門,②消費関連サービス部門,③生産関連流 通部門,④消費関連流通部門の 4 部門に分類される。(前掲書 284-5 頁参照)。また氏によれば, サービス部門は価値形成的だが,流通部門の労働は価値を生まない(したがって,その労働に

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関係主義的な抽象的労働説と国民経済計算 与えられる所得は本源的所得ではなく,派生的所得である)。言い換えるなら,流通部門は,価 値を生まない不生産部門であり,たんなる売買行為すなわち「価値を創造するのではなくてた だ価値の形態変換を媒介するだけの労働」によって担われる部門とされる(前掲書 94-8 頁参 照) 。この場合,商業,金融・保険業,不動産業などが流通部門とされ,これに加えてサービス 部門の一部(各種リース業,駐車場業,広告業,法務・会計事務所,劇場,宿泊業,遊園地な ど)がこの流通部門に分類されている(前掲書 286 頁参照) 。 16)このような考えは,すでに置塩信男氏が主張していたものである(『現代資本主義分析の課題』 岩波書店,1980 年,85-86 頁参照)。 17)この分類は,飯盛信男『サービス経済論序説』 (前掲)286 頁の「第三次産業の分類」を参考に した。飯盛氏は,このような第三次産業の分類をもとに,サービス部門の労働を価値形成的で あるとし,流通部門の労働は価値を形成しない労働であると主張する。氏によれば,商業,金 融・保険業,不動産業などが流通部門であり,またサービス部門の一部(各種リース業,駐車 場業,広告業,法務・会計事務所,劇場,宿泊業,遊園地など)が流通部門とされている。し かしながら,ここで価値を生み出さない不生産部門とされた流通部門もまた,広い意味でのサ ービスを提供する部門であることには何ら変わりはないはずである。金融・保険サービス,不 動産サービスについては言うまでもないことながら,商業もまた広い意味でのサービスを提供 している。卸売りも,小売りもいわば顧客同士を繫ぐサービスであり,ここにはマルクス学派 の中では価値形成的とされる運輸サービス,保管サービス等も含まれているのである。 18)橋本勲氏によれば,売買取引,価格計算,簿記,通信,現金出納などは商品の価値実現にとも なう技術的操作であり,他方の商品の品え,品質鑑定,/量,分類,小分け,受け渡しなど は使用価値の実現にともなう技術的操作として区別されなければならないとされる。ただし, いずれの場合も「商人的操作の一部」として,マルクスが生産的労働として認めた保管や運輸 に関わる労働とは区別されるべきだとも主張される。つまり,保管過程や運輸過程は「追加的 生産過程」であり, 「商人的操作の一部」でしかない使用価値の実現にともなう技術的操作とは 区別されるべきだ,と言うのである(『商業資本と流通問題』 ,ミネルヴァ書房,1980 年,82-3 頁参照)。しかし,保管や運輸に関わる労働もまた商品の使用価値(したがってまた価値)の実 現のために必要とされているはずで,これらを線引きして区別する基準には説得力があるよう には思えない。 19)この点に関連して,小檜山正克氏が次のように論じていることは傾聴に値する。 「製造会社の 中で,技術者や工場労働者は別として,営業部,資材部などで働くサラリーマンの大部分は実 は,理論的にはこれと全く同じカテゴリーの商業労働を行っているのであって,このような 人々を含めるならば,商業労働従事者の数は,普通の統計に示されているよりも遥かに膨大な ものとなるであろうことは,想像に難くない。さらには,もっと広く,所有資本と対立するも のとしての機能資本の仕事をするマネージャー達の労働,つまり企業経営・管理の労働,さら には国民経済の運営に携わる人々の中にも,このような商業労働に入る部分があるであろう。」 (小檜山正克『労働価値論と国民所得論』新評論,1994 年,336 頁) 20)川上則道氏は,魅力的なタイトルを付けた近著( 『マルクスに立ちケインズを知る

国民経済計

算の世界と『資本論』』新日本出版社,2009 年)で, 「物質的生産が生み出した所得がその期に 生産された本源的な所得であり,サービス生産が生み出した所得は実は再配分された派生的な 所得である」 (225 頁)と言明している。要するに,川上氏は例の生産的労働の本源的規定に従

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東京経大学会誌

第 277 号

い,基本的にサービス生産労働は価値を生み出す生産的労働ではないと考えているわけである。 体化労働説的なサービス生産労働観がマルクス学派の中でいかに根強いかを示すものと言えよ う。 21))なお,2010 年の国内家計最終消費支出(名目)は 278 兆 3509 億円であり,その中の帰属家賃 は 46 兆 7285 億円にのぼる。国内家計最終消費支出の約 16.8% である。 22)1993 年の改訂 SNA では, 「その産出されたサービスの需要者を,家計,各産業,政府,海外等 に特定化し,その需要を各部門の中間消費,最終消費および輸出入に配分することが原則とさ れた。したがって,最終需要に配分された分だけは GDP の額が従来よりも大きくなることに なる。 」 (白川一郎,井野靖久『SNA 統計

見方・使い方』東洋経済新報社,1996 年,173 頁)

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